野洲川の概況
上流に標高600~1,000m前後の山々をひかえる野洲川は、中流部の川幅は広く、500mを越えるところもあるのに対し、河口から5kmでは南北に分流し、それぞれの川幅は70~150mに縮小する川であった。下流では、大雨のときに水位が急上昇して破堤や溢水の起こりやすい川であった。流域は花崗岩など浸食されやすい地質からなり、また山地が伐採などによって荒廃するとともに、流入する土砂の量が増大し、堆積の進行によって下流では水を流す能力が低下していった。室町時代後期頃から河床の上昇がすすみ、氾濫と築堤を繰り返した結果、耕地の安定と確保のために河道を人工的に固定した天井川が下流のいたるところに発達し、決壊した時の被害をますます大きくしていった。
ひとたび堤防が決壊すると、家屋・田畑の損壊と落命、堤防の修復、不自由な避難生活、困窮極まる暮らしと家族離散、水害の惨状はとどまるところを知らないほどであった。
稲作と水利の歴史
古代の農
野洲川がまだ暴れ川で、流路が定まらなかった古代。洪水を避けるために、人々は高台に住み、山からの土砂が堆積してできた肥沃な(低地)湿地は、耕地として利用された。氾濫原を流れる無数の小河川からは、古代の原始的な土木技術でも、容易に水を引いてくることが可能であった。野洲川下流部の低地は、農業を営むには最適の場所であったのだろう。古代の水田遺構が下流部の各所で見つかっている。
近くの小学生が土器の破片を拾ったことによって明らかになった服部遺跡からは、20㎡から100㎡の区画面積で細かく区切られた弥生時代の水田跡が、合計で約2haも見つかった。また、右岸の五之里遺跡では、高床式倉庫の後が見つかっている。甲賀市と湖南市の境の辺りでは、5世紀前半の古墳群(泉古墳群)が発見されている。最近でも、遺跡発見は相次いでおり、平成17年11月に、守山市では古墳時代(3世紀後半)の遺跡が発見された。これらの発見によって、古代の野洲川流域は、これまで想像されていた以上に広範囲で発展していたことが明らかになっている。
大化の改新後、公地公民制がしかれ、畿内を中心に全国各地で条里制がしかれた。野洲川下流には、現在でも規則的に通る道路などに条里制の影響が色濃く残っている。また、野洲市の「五之里」「五条」「六条五之坪」、守山市の「十二里」、栗東市の「十里」「綣の七里」など、小字の地名としての条里制の名残りを見ることができる。
しかし、まだかんがい技術が発達していなかった古代では、条里制を行ってもその土地に水を引いてくることができなかったため、すべてを水田にすることはできなかったと考えられる。
中世の農
奈良時代の743年、墾田永年私財法が発令され、公地公民制が崩れると、荘園時代が始まる。野洲川流域には、延暦寺系、法隆寺、大安寺系などの荘園があった。この地の荘園の大きな特徴として、規模が小さく分散していたことが挙げられる。有力な寺院は、こぞって田畑を開墾し、同時に河川から農地に水を引くための堰を設けていった。
また、小さな領主による分散した統治体系は、野洲川上中流部にまで及んでいたことが分かっている。忍者でも有名な甲賀五十三家と呼ばれる小領主は、城館(邸宅)をつくり小規模で団結していた。この地で見つかった、豪族が住んでいた城館の数は、約300、実に滋賀県全体の城館(約1,300)の4分の1にのぼる。つまり、少なく見積もっても、甲賀だけで300もの領主が存在していたことになる。
もともと河川の水が少ない野洲川。分散した領主によって、こぞって河川開発が行われると、上流と下流で水をめぐって争いが起こり始める。この地の農の歴史は、水争いの歴史といっても過言ではないほどに激化していった。
近世の農
戦国時代や江戸時代の水争いの様子は、様々な資料によって今に伝えられている。江戸時代の野洲川には78ヶ所もの井堰が造られていた。
下図は、1700年ごろの野洲川の堰を表したものであるが、中流から下流にかけて、びっしりと堰が築かれているのが分かる。5年から10年ごとに起こった大規模な干ばつの度に、上流と下流、右岸と左岸との間で、野洲川の水をめぐって争いが起きた。なかでも、のちの一ノ井である荒井六郷(栗東市伊勢落)、神ノ井(野洲市三上)、今井十郷(守山市勝部)ら三井組による争いは、裁判沙汰にまで発展するほどし烈なものだったようである。
その後も神ノ井と一ノ井の争いなど、流血を伴う争いがたびたび勃発している。「勝部に嫁をやるなら、桶をもってやれ」「月夜に田が焼ける」など、今なお伝えられているこれらの言葉は、当時の水不足の深刻さを雄弁に語っている。
上流部から順番に水を引き入れるため、一度かんばつが起こると、おのずと下流部で深刻な水不足の問題が生じる。そのため、下流では、必要に迫られる形で多種多様な取水方法が生み出された。湧水地帯では、井戸を掘り、はねつるべで水を汲み上げていた。また、琵琶湖岸では、クリークを掘り、水を引き入れ、竜骨車や足踏み水車で水を汲み上げるという方法で用水を確保していた。