672年、大海人皇子と大友皇子の皇位をめぐる争い「壬申の乱」が勃発しました。そのことが記された「日本書記」には、野洲川流域の地名が登場します。
不破の関(関ヶ原)より大友皇子のいる近江宮(大津宮ともいう)を目指し出陣した大海人皇子の軍隊は、途中、東山道(中山道の古称、現在の国道8号線)入り湖東を南下しました。大友皇子率いる朝廷軍は、逆に不破の関へと向かっていました。野洲川の流域に入って初めに両軍がぶつかるのが、安河(やすのかわ:現野洲川)であります。安河の戦いで勝利した大海人皇子は、続いて栗田(現栗東市)で大友軍を破り、瀬田に至ったとされています。
平安時代末期、平家は壇ノ浦の合戦(1185年)に敗れます。平家の大将である平宗盛とその子どもは捕えられ、鎌倉へと連行されました。しかし、源頼朝から平家の鎌倉入りを禁止するという命令が出たため、京都へと引き返すことになりました。そして、宗盛親子は、京都を目前にした現在の野洲市大篠原で、同行していた源義経の手によって処刑されました。その場所には、「平宗盛卿終焉之地」と刻まれた石碑が建てられています。
この地は、古くから東日本と西日本を結ぶ交通の要衝であり、軍事的にも重要な位置を占めていました。